映画『SUPER8』という矛盾的”青き”名作

【レビュー】

SUPER8という、筆者にとって大変好ましい映画があるのだが、大抵人に薦めて後から感想を聞くと「うーん」と言われてしまう。

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www.super8-movie.jp

 

先日、映画好きの知人に観せたところ、

「な、何一つストーリー上の問題を解決していないのに、最後の最後に感動を促す描写って…これはちょっと…」

と完全に苦笑されてしまった。

その人の映画鑑賞の主眼とは主にストーリー構成にあり、わたしとはかなり評価観点が異なることから、事前に「退屈かもね」との振りをして視聴に臨んだものだったが、まさにその通りの感想を得ることになってしまったわけである。

無論、世間的な評価をみても、氏のような評価は妥当と言えるかもしれない。

J・J・エイブラムス監督作品における本作品の存在感の無さときたら、そこには若干の悲哀というものすら禁じ得ない。

Yahooの映画評点は3.01/5点、レビュー欄にも「詰め込みすぎ」「薄っぺらい」などの辛辣な感想が並ぶ。

公開以来毎年視聴するほど当作品を「なんか好き」と感じる筆者こそマイノリティなのでは、と顧みてしまうほどである。

 

しかしながら、いわゆる「なんか好き」と言う言葉で描写する以外に、恐らく極力客観的に分析しても、当作品に於いては恐らくある一定の層にとって、心惹かれる要素が随所にあるように思われる。

それを楽しむ人ならば、当作品はおそらく、映画としてかなり魅力ある作品として映るはずである。

無論、本レビューはいわばそのような、特定の人の目に留まればよいという筆者のエゴにまみれた過剰な期待を負うわけではなく、寧ろそのような筆者自身の感じた当作品の魅力といったものを、より広く興味を獲得されるような形を以て開放することで当作品に対する微力ながらの再発見を果たしたい、そういった類の(無論またこれもひとつのエゴに変わり無いが)意図がある。

シンプルにいうならば、これを読んで少しでも当作品に惹かれるものを見出す読者であれば、夏前に是非、観てもらいたいのである。(夏前、を推す理由は後述する。)

 

補足しておかねばならない前提として、筆者は映画とは大衆へと開かれた総合芸術的産物であるとの立場をとる、という点を強調させて頂きたい。

無論個人的にはいくつか主要となる観点はあるのだが、映画とは主にストーリー、キャスト、音楽、映像効果等、筆者にとって認知可能なあらゆる要素を以て、作者の意図(そのようなものがあるとしても)とは別のところで、自由かつ総合的に評価し得るものである、と筆者は考える。

(これは恐らく最も大衆的立場の域を出ないものであるとも思われるが、即ちここで言いたいのは、しばしば専門的素養を持つ映画愛好家に多く見られるように、或る一つの視点から注力して評価するということは筆者には不可能で有るということである。例えば、ストーリーのみが単独的に素晴らしくとも、筆者はそこにのみ着目して作品を評価しきることは出来ないという、いわば言い訳事である。)

 

 

さて、作品の紹介に戻ろう。

まずは本作品のストーリーを初めとする基礎項目について、まさに大衆的賛同を得易い描写を特徴とする(傾向があると思われる)、Wikipedeiaからの引用である。

 

 

 

1979年オハイオ州。ある夜、主人公ジョー・ラムを含む6人は、自主制作のゾンビ映画を作るため、スーパー8mmカメラを持って線路のすぐ近くで撮影をしていた。しかし、映画の撮影中に線路上でアメリカ空軍の物資を運んでいた貨物列車と線路を走っていた一台の車が激突し、後の大事故となる。列車が大炎上するほどの大事故であったが、ジョー達は奇跡的に全員無事であった。

電車に衝突した車の運転手、ジョー達の通う学校の生物教師であるウッドワードは、ジョー達に「今見たことを決して誰にも言ってはいけない。そうしなければ君達と、君達の親も殺される」と意味深な言葉を残したが、その言葉の真意はわからないまま時間は過ぎていった。そして、その夜から街では、住民が失踪、犬が逃げ出す、停電が続くなどの奇怪な事件が続出し、仲間のアリスも何者かに攫われてしまった。

騒動の原因であると推測された貨物の正体はジョー達が撮影した映画に偶然映っており、それを知ったジョー達は謎を解明するために学校へ忍び込み、ウッドワードの記録を辿る。記録では謎の貨物の正体とは、高度な技術と超能力を持った宇宙人であった。ウッドワードはそれの研究機関の一員であり、その宇宙人を軍の手から離そうと考えていたのである。

アリスを攫った者の正体を知ったジョー達は、アリスを探すために街で調査を行い、列車から脱走した貨物、すなわち宇宙人の隠れ家を発見する。宇宙人はそこで捉えた人間を食し、地球から出るための準備をしていた。そこにはアリスもとらわれており、間一髪でアリスを救出できたジョー達は地上へ。

ジョー達が地上へ出た頃に、宇宙人は既に地球から出るための準備を完成させており、地球を脱出した。アリスは父と、ジョーも父と再会を果たし、親子としてもそこに邂逅があった。

  • 監督

J・J・エイブラムス

  • 脚本

J・J・エイブラムス

  • 製作

スティーヴン・スピルバーグ
J・J・エイブラムス
ブライアン・バーク

  • 製作総指揮

ガイ・リーデル

  • 出演者

ジョエル・コートニー
エル・ファニング 他

  • 音楽

マイケル・ジアッキーノ 

 

 

正直なところ、当作品は決して、SF作品として評価するべきではない

そのように観る場合、これは完全にB級の域を出ない、それどころか、第一級のクオリティを目指しつつ、全くそれには及ばないといった貧困な地位に留まるものである、といってよいだろう。

要因といえば、枚挙にいとまがないほどである。

監督の他作品を「うわっ…好きじゃない」と感じる人ならばビジュアルとしても生理的に受け付けないかもしれない、所謂彼の好みを全面に押し出した宇宙人(クリーチャー)、そのインパクト(但しオリジナリティ性と言えばそれほど高くない)に反して、SF上のヤマなし、オチなし、といったところである。

ビジュアルの“帯に短し襷に長し”具合は先述の通りであるし、ストーリー構成の精緻さに関しては、これ以上欠くことはないとすら言えるかもしれない。

更に、主人公の少年ジョーが、空軍の拷問に曝され人間への憎しみを植え付けられた宇宙人と心を交わす場面における「わかるよ」「つらいこともある」、あるいはラストシーンで父親ジョーを抱きしめながら呟く「大丈夫、もう大丈夫だ」(いずれもHulu:字幕訳による)など、「この大事なところで絞り出したのがそれか…」と思わず突っ込みたくなる台詞のチープさも否めない。

 

では一体、どこにこの作品の魅力を見出すことが出来ようか。

筆者自身、この映画を好むのは先述の前提によるところが大きい。

つまりそれはかなり複合的な結論だが、一言で言うならば、“青さ”とも言える描写の妙である。

 

スタンド・バイ・ミーという青春映画がある。

筆者が述べるまでもないことであるが、当該作品をご覧になったことのある読者ならば即時的に、本作品が大いにその影響の基にあるということ、寧ろオマージュなのではないかとさえ感じる方も多いのではないかと思う。

先ほど述べた“青さ”とは、まさに当該作品へと由来する類のものであると言えば理解に難くないかもしれない。

 

名作『スタンド・バイ・ミー』についての詳細な評は省くが、それは端的には、少年の自己喪失とそれを取り戻す過程を描く名作である。

その描写は、限られたサスペンス的要素と友情を媒介にして行われる。

事件と呼べるようなものは、あるにはあるのだがストーリー展開がそれに依存しない。

寧ろ主要な登場人物の心理推移とは、随所にちりばめられるごくありふれた少年同士のやり取りを通して、繊細に描かれるものである。

 

SUPER8』をこのような『スタンド・バイ・ミー』のオマージュとして捉えようとする場合、しかしながら明確に異なる点が2つある。

まずは少年達の成長の媒介となる事件がサスペンスなものからSF的地球外来生命体との邂逅に変わったこと、更に、友情に「淡い初恋」といった感情が加わることである。

無論『スタンド・バイ・ミー』同様、そのような諸要素は、あくまで登場人物達の心理推移のトリガーとなるものに過ぎない。

寧ろ表面的には、それらの引き金要素よりも、閉鎖的とも言える街の世俗、少年達の没頭する自主製作映画の素人臭さ、ヒロインとの初恋の儚さ、親子の絆の再獲得、といった面に作品の魅力が凝縮されるようにすら思われる。

より詳細に述べる必要があろう。

 

まず、本作品の一般的な評価の低さを決定付けるかのようなSFの側面、即ち「宇宙人」の存在であるが、あくまでその扱いとは『スタンド・バイ・ミー』に於ける「死体」程度のものであるといってよい。

それは街を恐怖へと貶め、ヒロインを攫うといった物語の要所に於ける展開の起点として必要十分に機能する、あるいは、街の外部からより巨大な権力として不条理を提供する空軍を媒介描写するものであるに過ぎない。

当然ながら、重要なのはその媒介を通して描かれる全てである。

つまり、街を守る警察官としての主人公の父親の葛藤や苦悩、少年達がある種の奇妙な緊張感のなさを以て行う謎解きの過程、その過程に於ける街の人々との応酬、そしてそれらを通じて果たされる主人公の父子関係あるいは初恋を含めた、精神的成長、云々。

結局のところ、宇宙人についての詳細な説明は完全に省かれているのである。

彼が何者なのかといった疑問に答えるヒントは用意されておらず(宇宙人は終始「彼」と描写されるにとどまり、つまり無名である)、如何なる経緯を以て地球へとやって来たのか、空軍は如何なる目的で彼を拷問し実験にかけたのか、そこで払われた犠牲とその意義あるいは無意義といった、多くのSF作品においては焦点の当てられるポイントは、最後まで軽視され続けることになる。

更に、最終的に宇宙人が宇宙へと還る過程のあまりにものあっけなさ、高度な文明を持つと言われる彼らの、街外部への影響の無さ(空軍の管理下に置かれるとはいえ、数日間を通して拡大される街の被害は外部へと伝達されない)等、プロデューサーであるS.スピルバーグの過去作品『E.T.』にも似た、不自然を極める映画的な自然さのようなものを彷彿とさせる。

 

二点目、本作品に於いて一層特徴的なのはジョーの初恋相手、アリスという存在である。

ヒロインとは主に、美しさや強さ、あるいは脆さといったものを象徴するが、アリスに関しては、ジョーの母親が巻き込まれた爆発事故の直接の責を負う(とジョー父親はが考える)男を父親に持つ少女として描かれる。

彼女の父親ジョーの母親と同僚であったが、爆発事故当日、作業担当員であった彼が従来の飲酒習慣故ジョーの母親に作業を取って代わられた、つまり母親が亡くなった直接の原因とまではいかずとも、アリスの父親が作業へと出向けば、ジョーの母親は死なずとも済んだことになる。

奇妙な立ち位置をもつこのキャラクターは、それ故、主人公の初恋の対象としてのみならず、彼の心理的な傷の類を克服するに寄り添う形で、友情の対象としても大いに機能するのである。

無論ここで友情と恋愛感情とを二項対立的に持ち出すのはある種の齟齬を生みかねないが、恋愛の描写とは一般に、あまりにも大きく物語を左右する要因であるが故、作品をある意味で主題とまるで異質なものへと変容させる危険性をもつものでもある。

しかしながら本作に於いてそれは、後に意外な手段を以て物語上の不純を除去される。

それは主人公ジョー父親とアリスの父親同士の、短いやり取りである。(是非本編をご鑑賞されたい。)

 

そして、以降は筆者の主観が過剰に物を言うと思われるが、『スタンド・バイ・ミー』同様、主人公を含む少年陣のキャラクターとしての質の高さを本作に於ける特徴として述べねばなるまい。

当該作品を、“青さ”を帯びつつも魅力ある群像劇へと終結させたのはまさに彼らの所業故であると、筆者には思われる。

それが象徴するのは、ある種「ままならなさ」とも言える思春期のジレンマである。

そのジレンマとは、自分が主役ではない、といったことに対するジレンマであり、今後の人生に於ける関係継続を見越しても居ない関係性といったジレンマであり、そしてなにより、大人に翻弄される存在としての少年少女、といったジレンマである。

主人公の旧友チャーリーの脇役感は終始貫徹しており見事と言うほかない。

また、少年同士は互いの成長を経て尚絆を持ち続けるという保証から奇妙に自由であるように映る。

更に、父親といった最も身近かつ絶対的存在によって、生活を決定付けられる主人公とヒロインの存在は、本筋の主背景であり、その変容を通して視聴者は感情を喚起される。

ここに於いて描写された彼らの数ヶ月という限定、その先も続いてゆく親子関係(未来に対する保証のような描写はなく、エンディングはあくまで宇宙人の帰還といったタイミングで行われる)という無常さ、更に少年達の映画製作などといった活動が友情同様彼らの未来にとって何ら実利的な影響を与えるものでないかもしれないといった無為さは、晴れやかですらある。

そして、思春期とはまさにそのようなものであろうと、筆者には思われるのである。

誰しもそのようにして、実利のない何かへと夢中になったことがあるだろう、そしてそういった実利のないもので埋め尽くされる青春というものは、その実利のなさゆえに人生を鮮やかに塗り替えてゆくのだ、といったような。

こうしてあらゆる生活の過程を通り抜けるかのように描かれる、“青さ”は、視聴後にある類の爽快さをも、生ずるものであった。

それ故、最後にジョーが母親のペンダントを手放すシーンは、本作品の終わりを示す象徴的場面として十分に機能するものであったと思われる。

 

(筆者による過剰に熱を帯びた描写では明らかに偏りが大きい、従ってシーンの抜粋といったものを行いたいところであるが、それもまた一つの偏重を助長するものであるが故、割愛する次第である…)

 

 

纏めるなら、SUPER8』は、普遍のテーマを名作へのオマージュといった形で果たしつつ、新たな要素を加えることで存在意義を提示した”青き”良作であろうと思われる

当該レビューの全てに於いて筆者の好みがかなり色濃く反映されているだろうから、結果的にはやはりあくまで筆者にとって好ましい映画、という以上に評価を期待することはない。

より個人的な形で述べると本作は、『スタンド・バイ・ミー』を現代的にアレンジし、そこに不純物を意図的に取り込むことによって、ある種の時代的脱却を果たしているように思われる。

オマージュだが、決して2番煎じではない。

これは、SF作品ではないが、紛れもなく、映画を作るといった思春期の活動へと素人的に没頭する少年達を通して描かれる一つの群像劇であり、或る父子の再出発を描いた物語である。

題名の「SUPER8」、それは少年達が夏季休暇を経て恐らく参加すると思われる8ミリフィルムの映画祭を指す。

それすらも作中で描かれることはないのであるが、エンドロールにて流れる少年達作のゾンビ映画の出来栄え(の素人独特とも言える質感)は、是非夏の前哨として味わって頂きたい代物でもある。

 

 

 

 

【参考】

movies.yahoo.co.jp

SUPER8/スーパーエイト - Wikipedia

スタンド・バイ・ミー - Wikipedia

 

 

【蛇足】

筆者はマイケル・ジアッチーノ音楽の大ファンだが、この映画に至ってはその存在を忘れていた。正直、『スタンド・バイ・ミー』でのベン・E・キングによる名曲のような、テーマとなる一曲があれば…と勝手に空想する。

youtu.be

 

【蛇足2】 

筆者の最も好きな場面、それはエル・ファニングの美しさが際立つヒロインの、主人公の家でのゾンビの役作りのシーンである。端的にかわいい。最高。

https://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/c/p/c5/b8/338676view005.jpg

 

 

【追記】

執筆後、筆者のレビューに最も近しいと思われるamazonレビューを発見しました。

ほぼ同じところに言及していらっしゃって、焦る。笑

申し訳ない、本レビューこそ、このレビュー主さんの二番煎じに過ぎないものです…。